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「獣道は勝つことだけに集中できる」 ウメハラが語る時代の変遷と、大一番への思い。

Updated: Mar 24, 2018

「向こうからやりたいって言われたからね、ありがたいなと」

 ときどとの試合は、本人からの申し出だったという。

「やっぱりこっちからは言えないでしょ。インフィルとかXianのときは周りがお膳立てしてくれたからできた。楽しみですね」


[トーナメントとリーグ、そして獣道]


「特定の相手のことだけを考えて対戦するなんてことは、滅多にないですから」

 対戦相手、日時、そしてルールも決まっている。全てを相手に注力することが約束された試合。そこには通常行われる試合形式とはまた別の醍醐味がある。

 カプコンプロツアー。ストリートファイターⅤにおけるプロゲーマーの主戦場だ。これはトーナメント形式で行われ、多数の参加者に対応するため試合数は二試合~三試合先取と少ない。勝ち残っているかぎり、一日に多数の相手と対戦することとなる。通常行われる試合形式では最もポピュラーなものだろう。

 平均的で幅の広い対策と、試合における瞬発力。そういったバランス感覚を求められる形式である。

 比較されるとすればリーグ戦だろう。ウメハラも出場していた過去のリーグ戦を例に取ると、対戦相手は一日に一人か二人。試合形式も七試合先取と長いものだった。これはトーナメントとは逆の資質が求められる。

 特定のプレイヤーを倒すことに注力する。「獣道」はこのようなリーグ戦に近いものと考えて良いのかもしれない。

「そうですね。でも似ているようで違う部分もあるんですよ」

 少し考えてウメハラは答えた。リーグ戦はウメハラにとっても満足のいく対戦が少なくなかったというが、「獣道」では何が異なるというのだろう?



[あるようでない、両想いの試合とは?]


「リーグ戦ではそれぞれのプレイヤーに思惑がありますから」

 リーグ戦におけるプレイヤーの目的は一つでも順位を上げることだ。各自が現在の成績や日程を逆算して、どの試合にリソースを割くかを考えながら練習と試合をこなす。場合によっては、ほとんどリソースを割けない試合も発生する。

 一方にとっては重要だが、一方にはさほど重要ではないという試合。片想いの試合とでも言えばいいのだろうか。それが必然的に発生してしまう。いわゆる「捨て試合」も、言葉は悪いが理屈の上ではありうるのだ。

「互いにきっちり用意して全力でぶつかり合う。リーグにおいてすら、そんな試合の方が少ないのかもしれません」

 両者がほとんど全てのリソースを注ぎ込んでぶつかり合う試合。はた目には分からなくとも、そんな両想いの試合は存外少ないものなのかもしれない。

「当たり前ですが、お互いにとって重要な試合は注目されるし名勝負にもなりやすいですよね」

 日程の消化によって自然にストーリーが紡がれる。リーグ戦の美点であり面白さだろう。「両想い」もそこから発生する。しかし、どんなに運営が工夫しても結果を操作することはできない。運はどうしても絡む。

「そういうこともあって、リーグ戦でも意外にそういう試合は成立しないものなんです。でもワンマッチなら嫌でもやり合うことになりますから」



[納得するまで対戦していた少年時代]


 ウメハラは短期決戦のトーナメントも嫌いではないが、特定の相手と腰を落ち着けて対戦することをより好む。それはゲーセン育ちであることと無関係ではない。

「ゲーセンでは勝敗を誰も決めてはくれません。ルールがない。突きつめれば自分の気持ちだけという世界です」

 ゲーセンでの対戦環境が最も充実していた90年代、特に黎明期はその傾向が強かった。

 現在ではあまり見ることのない大きなキャラ差を受け入れて、自分が好きなキャラで遊ぶことを優先する。そんな気風が横溢していた時代。プレイスタイルにもこだわりが反映されていた。

 現在の情報の速度であれば瞬時に淘汰されるであろう偏ったプレイでも、結論が出るまでには時間がかかった。その猶予期間をどう楽しむか。正しいか間違っているかというようなことよりも、過程をどう楽しむか。何もかもが手探りの時代。当時はそういったプレイヤーの遊び心が、格闘ゲームを進化させていく原動力にもなった。

 そういうこだわりがある相手に、勝ち越したとか何連勝したとかといった数字だけでは終われなかった。少なくともウメハラはそれだけでは勝ったと思っていなかった。だからこそ、相手のこだわっている部分に向き合ったりもしたし、一人の相手とひたすら対戦したりといったこともした。

 デジタルな勝ち負けでは計れない。だから相手と向き合って納得できるまで対戦する。一回性の勝負にはない面白さを当時から感じていたという。



[主観から客観へ]


 現在の状況は90年代とは大きく様変わりしている。ゲームバランスは飛躍的な改善を遂げて、プレイヤー人口も増えた。情報の共有と、全体のレベルが押し上げられた影響で、偏ったこだわりが反映される余地はもはやない。 結果を素直に受け取って良い時代が来たということだ。

「当時と比べたら勝ち負けはわかりやすくなっているといえますね」

 デジタルな勝敗と、内心のアナログな勝敗。そのズレはかなり小さくなった。たとえるなら昔はメートル単位での誤差が、現在はセンチ単位といった感じだろうか。端的に言ってシンプルになった。

 それはプレイヤーにとってはもちろん、観る側にとっても歓迎すべきことだろう。そのような主観から客観の世界への移行が、観客の存在を生むエンタテインメントに繋がっていったことは無関係ではない。

 そんな時代の変遷をウメハラとときどは、それぞれ異なるスタンスで駆け抜けてきた。



[ときどとウメハラ、交差する二人]


「獣道は10先に勝つことだけに集中していいんだから、そこは楽ですね。ときどなら不足はありません」

 どうなれば勝ったことになるのか? 勝つとはどういうことなのか? 前述したように、そういった疑問と格闘しながら成長していったウメハラにとって「獣道 弐」におけるこの一戦は、はるかにシンプルといえる。

「ウメさんとは違って、勝っている間は何も考えてこなかった。そこで大きく差をつけられました」

 対するときどは逆だ。ゲーセン時代の方がはるかにシンプルだった。「勝てばそれで良い」というスタイルで連勝を築いたプレイヤー。その男がプロゲーマーになって以降、壁にぶち当たり、そこではじめて勝つことの意味を考え始めた。そして自分なりの意義と答えをを見出しつつある今、追い続けた背中でもある梅原大吾と対峙する。

 真逆ともいえるスタンスで格闘ゲームと向き合ってきた二人が、このタイミングで拳を交える。そこに何かしらの必然を感じるのは自分だけではないだろう。期は熟したということだ。



[自分は挑戦者]


「ときどが現在ベストといっていいプレイヤーの一人であることは間違いない。そしてプロゲーマーとしての成績は相手の方が上ですから、自分は挑戦者だと思ってます。そういう立場の方が面白いし自分には合っている」

 低迷期を不断の努力で脱したときどは今、第二の旬ともいうべき時期を迎えている。かつての「勝っているのだからこれでいい」といった甘さはない。簡単な相手ではないだろう。

「それはそうでしょうね。ただどうだろうな……今のところ、やるべきことにそれほど引っかかりがないんですよ」

 やるべきこと。それはその組み合わせにおける方針とでもいうべきものだ。ここを間違えるとすべてを誤ってしまう、対戦の根幹をなす柱。梅原大吾が対戦において最も大切にしている要素である。



[静かなる自信]


 プロゲーマー以後、ウメハラの経験を持ってしても答えを出すのに苦労をした組みあわせがいくつかある。

 ストリートファイターⅣシリーズ時代であれば「リュウVSサガット」「リュウVS豪鬼」「殺意リュウVSケン」等がそれだ。正しいと心から思える答にたどり着いたのは、長い試行錯誤の日々の果てのことだった。

「安易な結論で終わらせたくなかったから時間はかかりましたが、過去の課題となった組み合わせは自分なりに満足のいく結論が出せました。

 そういう組み合わせに比べると、今回の組み合わせはそれほど苦労はしていませんね。だから負けるイメージはありません。あくまで今のところは、ですけど」

 その口ぶりには静かな自信が感じられた。だが勝負である以上は絶対はない。ときどもあらゆる可能性を視野に入れて仕上げてくるはずだ。思考の死角を突かれる可能性もあるだろう。

「バージョンが変わって日も浅い、そういう可能性もあるでしょうね。でも正直に言ってまだまだ力の差があるんで、それを分からせることになるんじゃないかという気がします」

 試合までは一週間弱。まるで他人事のようにも聞こえる言い方に、自信が垣間見える。難敵を迎え撃つ準備に抜かりはないようだ。

「まだまだここから仕上げますよ。当日が楽しみです」

 ベストといっていいプレイヤーを相手に何を見せられるのか? 見逃せない戦いの幕が開く――。

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